今週よりいよいよ冬休みに突入といったところでしょか?
冬休みはイベントも多く1年の締めくくりの時期でもあり何かと忙しいとは思いますが、石川数学塾大阪の冬期講習は絶賛好評開催中です。
12/28(木)~1/3(水)は塾カレンダーにより通常授業はお休みになりますが、冬期講習は12/28(木)、29(金)、30(土)と午前・午後開講していますので、冬休みの課題や弱点克服、受験の追い込みなど、どしどしご参加ください。
今週よりいよいよ冬休みに突入といったところでしょか?
冬休みはイベントも多く1年の締めくくりの時期でもあり何かと忙しいとは思いますが、石川数学塾大阪の冬期講習は絶賛好評開催中です。
12/28(木)~1/3(水)は塾カレンダーにより通常授業はお休みになりますが、冬期講習は12/28(木)、29(金)、30(土)と午前・午後開講していますので、冬休みの課題や弱点克服、受験の追い込みなど、どしどしご参加ください。
今週よりいよいよ冬休みに突入といったところでしょか?
冬休みはイベントも多く1年の締めくくりの時期でもあり何かと忙しいとは思いますが、石川数学塾大阪の冬期講習は絶賛好評開催中です。
12/28(木)~1/3(水)は塾カレンダーにより通常授業はお休みになりますが、冬期講習は12/28(木)、29(金)、30(土)と午前・午後開講していますので、冬休みの課題や弱点克服、受験の追い込みなど、どしどしご参加ください。
クリスマスが終わって、投げ売りされているケーキが目立ちます。「祭」の終りです。
古来この国では、「祭」とはカミを「祀」ることでした。カミとは天上に住まう形而上的存在などではなく、祖先霊そのものでした。
族長はカミを「祀」ることにより、支配の正当性を主張し、「祭」を四方に及ぼすことにより、現世を支配したのです。
「祭」、「政」ともに「マツリゴト」たる所以ですね。
この「祭」り「祭」られる関係から、「学」び「学」ばれる関係も派生したのではないか、私は最近、そんなことを考えています。
「マツリゴト」の秩序無くして、「マナビゴト」も無かったのではないか。そんなことに気づき始めました。
もしもそうだとすれば、政治屋が教育屋の範ちゅうに首を突っ込んで、引っ掻き回すこと、教育予算ひとつ取っても、あたりまえの茶飯事になってしまった奇妙な蜜月、その源流が遥か古代にあったのかもしれないと思えて仕方ありません。
古くより、教育屋は政治屋を毛嫌いしてきました。今も、そうでしょう。
しかしながら、生理的嫌悪のみが事態を好転させるとは、およそ考えられない理由が、だんだん見えてきました。
クリスマスが終わって、投げ売りされているケーキが目立ちます。「祭」の終りです。
古来この国では、「祭」とはカミを「祀」ることでした。カミとは天上に住まう形而上的存在などではなく、祖先霊そのものでした。
族長はカミを「祀」ることにより、支配の正当性を主張し、「祭」を四方に及ぼすことにより、現世を支配したのです。
「祭」、「政」ともに「マツリゴト」たる所以ですね。
この「祭」り「祭」られる関係から、「学」び「学」ばれる関係も派生したのではないか、私は最近、そんなことを考えています。
「マツリゴト」の秩序無くして、「マナビゴト」も無かったのではないか。そんなことに気づき始めました。
もしもそうだとすれば、政治屋が教育屋の範ちゅうに首を突っ込んで、引っ掻き回すこと、教育予算ひとつ取っても、あたりまえの茶飯事になってしまった奇妙な蜜月、その源流が遥か古代にあったのかもしれないと思えて仕方ありません。
古くより、教育屋は政治屋を毛嫌いしてきました。今も、そうでしょう。
しかしながら、生理的嫌悪のみが事態を好転させるとは、およそ考えられない理由が、だんだん見えてきました。
「厳しい勉強」という論理矛盾があります。
何ゆえに論理矛盾かと申しますと…、勉強は「やりたい人」と「やらざるを得ない人」がするものですから、厳しかろうと厳しくなかろうと、どちらでも良いものなのです。厳しい、厳しくないを、「あえて言い張る必要が無い」ということです。
敢えて言うとしましたら、それは勉強を「やりたくない人」や「やる必要の無い人」が、無理やりやらされている証左に他なりません。これは「勉強」ではありません。
ゆえに「厳しい勉強」は、ありえないのです。
さてさて問題は、ありえないにもかかわらず、あたかも「ある」かのごとく人々に信じられているのは何故か?…、この点ではないでしょうか。
ズバリ言い当てますと、それは迷信だからです。
人々は「勉強」の背後に、蛍雪に耐え、克己を克ち取った物語を求めます。ドラマを求めるのです。
放っておいたら、およそ人々がやらないことを、敢えてするならば、そこには深い事情があるのであろうと。
いずれ人々の洞察は独り歩きし始め、「あるかもしれない」が「あるにちがいない」になり、「まちがいなくあったのだ」に転化します。
難しいことではありません。噂話の独り歩きと同じです。
大事なことは、こんなことです。
勉強に関わるものでなくとも、あらゆる概念は人々によって塗り替えられます。歪曲されることもあれば、誇張されることもあります。
これらと対峙しようとするならば、「現に目の前にあるものだけを信じる」ことを、肝に銘じるべきです。
「厳しい勉強」という論理矛盾があります。
何ゆえに論理矛盾かと申しますと…、勉強は「やりたい人」と「やらざるを得ない人」がするものですから、厳しかろうと厳しくなかろうと、どちらでも良いものなのです。厳しい、厳しくないを、「あえて言い張る必要が無い」ということです。
敢えて言うとしましたら、それは勉強を「やりたくない人」や「やる必要の無い人」が、無理やりやらされている証左に他なりません。これは「勉強」ではありません。
ゆえに「厳しい勉強」は、ありえないのです。
さてさて問題は、ありえないにもかかわらず、あたかも「ある」かのごとく人々に信じられているのは何故か?…、この点ではないでしょうか。
ズバリ言い当てますと、それは迷信だからです。
人々は「勉強」の背後に、蛍雪に耐え、克己を克ち取った物語を求めます。ドラマを求めるのです。
放っておいたら、およそ人々がやらないことを、敢えてするならば、そこには深い事情があるのであろうと。
いずれ人々の洞察は独り歩きし始め、「あるかもしれない」が「あるにちがいない」になり、「まちがいなくあったのだ」に転化します。
難しいことではありません。噂話の独り歩きと同じです。
大事なことは、こんなことです。
勉強に関わるものでなくとも、あらゆる概念は人々によって塗り替えられます。歪曲されることもあれば、誇張されることもあります。
これらと対峙しようとするならば、「現に目の前にあるものだけを信じる」ことを、肝に銘じるべきです。
去る11月19日(日)、東大寺の金鐘ホールで、石野博信先生、関川尚功先生(ともに元橿原考古学研究所)のご講演を拝聴して参りました。
三世紀から四世紀に至る有名な土器編年を作られたお二人です。石野・関川編年と申します。
共同作業として編年されたにもかかわらず、実年代を上げる、下げるで論敵となられたお二人でもあります。
私はこの日のご講演を、たいへん楽しみにしていましたので、スキップしながら聞きに行きまして、ゴチャゴチャとアンケートをしたため、またまたスキップしながら帰ってきました。
一昨日、アンケートを集約された文書がメール配信されてきました。私のゴチャゴチャも、採録されておりました。
「関川先生のお話は古き良き九州説と拝聴しました。箸墓を上げすぎ、庄内式の編年を上げすぎなど、少しうなずきました。しかしながら特殊器台型や三角縁鏡編年が大変厳密化した昨今、政治部分に特化した纒向論など、先生の近著にて勉強させて頂きます。石野先生はお若い頃の方が過激でいらっしゃったと思います。いつまでも自説に柔軟でいらっしゃるのは、まだまだお若いからでもありましょう。」
はい、我ながら酷い文章だなと反省しきりです。
普段、自由記述題を指導する際、「下書き書いて、三回書き直せ!」と言っておりますが、これでは真っ先に己を指導せねばならぬようです。
この意味でも、良い勉強になりました。
去る11月19日(日)、東大寺の金鐘ホールで、石野博信先生、関川尚功先生(ともに元橿原考古学研究所)のご講演を拝聴して参りました。
三世紀から四世紀に至る有名な土器編年を作られたお二人です。石野・関川編年と申します。
共同作業として編年されたにもかかわらず、実年代を上げる、下げるで論敵となられたお二人でもあります。
私はこの日のご講演を、たいへん楽しみにしていましたので、スキップしながら聞きに行きまして、ゴチャゴチャとアンケートをしたため、またまたスキップしながら帰ってきました。
一昨日、アンケートを集約された文書がメール配信されてきました。私のゴチャゴチャも、採録されておりました。
「関川先生のお話は古き良き九州説と拝聴しました。箸墓を上げすぎ、庄内式の編年を上げすぎなど、少しうなずきました。しかしながら特殊器台型や三角縁鏡編年が大変厳密化した昨今、政治部分に特化した纒向論など、先生の近著にて勉強させて頂きます。石野先生はお若い頃の方が過激でいらっしゃったと思います。いつまでも自説に柔軟でいらっしゃるのは、まだまだお若いからでもありましょう。」
はい、我ながら酷い文章だなと反省しきりです。
普段、自由記述題を指導する際、「下書き書いて、三回書き直せ!」と言っておりますが、これでは真っ先に己を指導せねばならぬようです。
この意味でも、良い勉強になりました。