脱-冬講日記(31)

勉強する人生を選んだ人にとって、勉強は日常そのものです。あたりまえの毎日そのものです。何の不思議もありません。

人生は勉強だけに依るわけではありません。むしろ勉強し続ける人たちのほうが、少数派でしょうね。勉強することがお仕事でない限り、多くの人々がいつか学ぶことをやめてしまいます。

このあまりにまっとうな構図から考えますと、「勉強せえ!」とドヤされながらも、隠れてコソコソと勉強をサボる子供たち…そんな茶飯事も、理論上全くなくなるはずです。

将来ある子供たちにとっては、およそモノにならない勉強にしがみつく必要もないですし、親御さんにとっては、しがみつかせる必要もないからです。

ではなぜ、いつの時代にも茶飯事が起きてしまうのか?

答えは至極単純でして、「勉強ができるようになったらいいな」程度のことは、子供たちも親御さんんも想っているからです。

茶飯事の原因は、この想いの中途半端なることにあります。「できたらいいな」程度の夢想は、艱難辛苦を乗り越えられません。

苦しくなったら子供は逃げる、親は叱る、この救い難い連鎖が、いつの時代にもあるのですね。生老病死の輪廻にも似ているでしょう。

解脱(げだつ)に必要なものはただ一つ。「勉強ができねばならぬ!」と、確信することです。それだけです。

解脱したものが、覚醒したる勉強人になること、これまた皆さん広く諒解されますでしょう。覚醒したものはサボりませんし、非難されることもありません。

中途半端なまま居続けることは、人生の無駄遣いです。悟りましょう!

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦