夏講日記(その30)-留め置かまし 大和魂-

長い長い夏休みの出口がもうすぐそこに見えてきたころ、多くの皆さんを悩ませるものは、ホッタラカシの夏休み課題でしょう。

その中でも特に、急いでやろうと思えば思うほど、どこから手をつけてよいのか悩むばかりで、一種のパニック状態に陥るものが「日記」と「自由研究」だと思います。

とにかく二か月ほど前まで思い出しさえすれば「日記」は書けるとして、「自由研究」は手ごわいです。

常日頃の勉強に「自由研究」という教科はありませんし、入試科目にもありません。「困った…、困った…」と汗を拭いている間に、時間だけが過ぎていきます。

そこで急がば廻っていただきましょう。「自由研究」という課題を出した先生方は、いったい何を期待していらっしゃるのでしょうか。

こんな誤解があります。先生は課題プリントをつくるのが面倒くさかったから「自由研究」にしてしまった、恐ろしく詳しく突っ込んだ「研究」をした者が、高く評価されるのだ…と。

なかには誤解を地で行くような先生もいらっしゃいますから、話がややこしくなっていけません。しかしながら、誤解はしょせん誤解です。

「自由研究」を正しく把握しておられる本格的な先生方は、何を隠そう、「研究」を支える問題意識を評価しようとしておられるのです。

普段やっている勉強とは異質な次元の課題であるからこそ、普段の勉強からは見えてこない、換言すれば、勉強の陰に隠れてしまって、正面から測りえない情念を読み取れるのです。

およそ勉強なるものは、知らなかったら覚えて、わからなかったら理解して、テストに出たら正しく答えて…、これで二重丸ですね。勉強はこれで十分です。

ところが勉強すべき諸項目を、次から次へと解き明かして、きっちり用立ててくれる営みこそが「研究」です。「研究」の地平が、およそ勉強と同じであろうはずがありませんよね。

優劣や上下の問題ではありません。「研究」には「研究」なりの問題意識と方法論が準備されるべきだと言っているのです。

勉強するときには、知らないことをすぐに覚えます。しかし一歩「研究」に踏み込みましたら、まず調べます。調べようとする問題意識は、すでに勉強のそれを凌駕するものです。

調べたら吟味します。正邪の判断をつけるのですね。このレベルも、もう一段上です。かつて一度でも正しく理解されたことがある課題でしたら、これで終了です。ところが、すべからく正しくなかったら?ここからが「研究」者の出番です。

「研究」者は正しいことを正しいと主張するための論文を書き、有史以来初めて、正しいことを正しいと世間に知らしめるのです。

この行動を支えるものこそが、究極の問題意識なのですよ。

「自由研究」という課題は、この問題意識が既に芽生えているのかどうか…を、鋭く問うものなのです。

研究テーマを設定してくれないと「研究」できないとか、何を「研究」していいのかわからないとか、あまりに貧弱な困り方をしているあなた、それはあなたの日常普段の問題意識が、あまりに貧弱な証左なのです。

大業なことでなくて結構です。これは!という疑問が湧いたら、調べてみる、考えてみる、まとめてみる…このことを心がけるだけで、長期休暇の自由研究が魔法のように苦痛でなくなります。

「ウソかもしれない(笑)」と思っているあなた、是非ともだまされたと思って、一度やってみてください。

あなたはきっと、近い将来、私に感謝することになるでしょう。感謝の言葉を、お待ち申し上げます。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦