夏講日記(その29)-留め置かまし 大和魂-

授業のやり方に悩んでいた頃がありました。若かりし頃のことです。

とにかく一生懸命教えていました。一生懸命教えれば、「必ず定着する」と信じていました。

どう教えればわかりやすいか、掘り下げて考えました。少しでもわかりやすい解説を、編み出そうとしました。

教える技術が教えることのすべてだと、何の根拠もなく盲信しておりました。寸分の疑いもなく…です。

事実に叩きのめされました。

一生懸命教えれば教えるほどに、わかりやすく教えれば教えるほどに、講義術に磨きをかければかけるほどに、生徒の偏差値が下がっていきました。

何でだろう?…と、日夜悩みました。何でなのか、わかりませんでした。

諦めかけたときに、思いつきました。自己パフォーマンスに執着することを止め、生徒たちを凝視・観察してみよう。

驚きました。

一生懸命教えれば教えるほどに、わかりやすく教えれば教えるほどに、講義術に磨きをかければかけるほどに、傍観者となり果てた生徒たちが、教室にいました。「解説、おみごと、ごもっとも。けれど、僕らには無関係」と、冷ややかに宙をさまよう視線がありました。

小生は大事なことを忘れていました。

一生懸命教えてほしいと熱望する生徒に、一生懸命教えてこそ、わかりやすく教えてくれることを渇望する生徒に、わかりやすく教えてこそ、磨かれた講義術に刮目し、その素晴らしさを知る生徒にこそ、洗練された授業の価値があるのだということを。

小生は教えすぎることを止めました。教えないわけでは…ありません。

教えないわけではありませんが、教えてほしいと叫ばんばかりの様子を確認してから、教えるようになりました。

様子がなければ…はい、一番大切なことですから、あやふやにしなくなりました。

雰囲気を醸しだすまで、諭します。時間がかかっても、省略しません。

若い頃悩んでおいて良かったと、つくずく感じます。

小生に試練を与え給うた神が、もしいらっしゃるのなら、あらん限りの感謝を奉げたいと思います。ありがとうございました。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦