無-冬講日記(15)

身近なところから、いろんなモノが無くなり、身近にいる人たちが、ある日突然いなくなってしまったら、いったい私はどうしているだろうと思うことがあります。

おそらく真っ先に思いつきますのは、徹底的に「お気楽太郎」な生活。好きな本を読んで、好きな文章を書いて、好きに教えて、耕して、掘って、料理して…毎日が過ぎてゆく。

恐れ入ります。単なる妄想モードでしたでしょうか。

少し冷静に考えてみますと、「再構築次郎」な生活。モノをもらってきたり、買ってきたり、作ったり、人を呼んだり、呼ばれたり、会ってみたり、交友し始めたり。

いやはや、あまりに現実的すぎますね。

結局、落ち着き先は…と言いますと、無くなったモノを取り戻そうとしたり、いなくなった人を呼び戻そうとしたり、要するに私は、自分を取り巻く世界を、元に戻そうとするのでしょうね。

こんな空想実験をしてみますと、改めて「現在」のありがたさがわかるものです。

ややもすと疎まれがちな「今」こそが、最も心地よい空間であるとわかる、これほど幸せを醸しだす瞬間に、今日も感謝しています。

勉強も同じだと、私は思うのです。

無い物ねだりの妄想に憑りつかれた時や、現実という名の重圧に押しつぶされそうになった時、あれもこれものすべてが、代えがたく貴重な経験であると思えるましょう。

勉強って本当にすばらしいですね。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

厳-冬講日記(14)

彼は毎朝、あのコンビニにいます。私も毎朝、買い物に行きます。

彼はコンビニに入って来るなり、大きなリュックをドカリと下ろし、財布を探します。財布が見つかったら、おつりが無いように現金を準備し、パンを一個買います。買ったらそそくさと隅っこにダッシュして、パンをしまい、財布を直します。

次に彼は、飲み物を買います。大きなリュックから、もう一度財布を出し、ペットボトル一本を勘定してもらいます。買い終わったら、また財布をしまい、飲み物をなおします。

彼はこれを繰り返して、ひとつひとつ買い物するのです。

店員さんもよく判っており、決して彼を疎まず、一回一回「いらっしゃいませ」、「ありがとうございます」を繰り返します。

彼は買い物し終わると、満面の笑みを浮かべて、スキップしながら退店します。

お客さんたちは、初めてみると目を白黒させますが、事情を理解すると温かく見守ります。

何かとギスギスしがちな年末、私も含めてホッとする瞬間です。

勉強も同じです。「サッサとやれ!」とか、「段取り踏め!」とか、必ずしもそればかりでなくていいのではないでしょうか。

愚直だなどと言われようとも、大事なステップを一つ一つ踏むこと、むしろ勉強するときにこそ大切なことに違いありません。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

厳-冬講日記(14)

彼は毎朝、あのコンビニにいます。私も毎朝、買い物に行きます。

彼はコンビニに入って来るなり、大きなリュックをドカリと下ろし、財布を探します。財布が見つかったら、おつりが無いように現金を準備し、パンを一個買います。買ったらそそくさと隅っこにダッシュして、パンをしまい、財布を直します。

次に彼は、飲み物を買います。大きなリュックから、もう一度財布を出し、ペットボトル一本を勘定してもらいます。買い終わったら、また財布をしまい、飲み物をなおします。

彼はこれを繰り返して、ひとつひとつ買い物するのです。

店員さんもよく判っており、決して彼を疎まず、一回一回「いらっしゃいませ」、「ありがとうございます」を繰り返します。

彼は買い物し終わると、満面の笑みを浮かべて、スキップしながら退店します。

お客さんたちは、初めてみると目を白黒させますが、事情を理解すると温かく見守ります。

何かとギスギスしがちな年末、私も含めてホッとする瞬間です。

勉強も同じです。「サッサとやれ!」とか、「段取り踏め!」とか、必ずしもそればかりでなくていいのではないでしょうか。

愚直だなどと言われようとも、大事なステップを一つ一つ踏むこと、むしろ勉強するときにこそ大切なことに違いありません。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

楽-冬講日記(13)

日曜日も男は、あいかわらず早朝に起き出します。ほとんど水と食料だけ入ったリュックを担いで、ほとんど誰も乗っていない休日早朝のJRで、意気揚々と出かけます。

桜井か三輪で降りると、テクテク歩きはじめます。こんもりした起伏を見ると、必ず立ちどまります。

「立入禁止 宮内庁」の立札が無ければ、丘に登ります。古墳ですと墳丘頂です。茅原大墓の後円部頂から、はるか葛城・金剛を見渡すのが好きだそうです。

男はブツブツ言いながら、何か拾い続けています。「壺」とか、「甕」とか、「埴輪」とか、「口縁」とか、「突帯」とか。

素人でもわかる言葉から、複雑怪奇な呪文まで混在しています。

「弥生Ⅴ」とか、「庄内」とか、「布留Ⅰ」とか。土器編年の名称なのですが、ここらあたりになると誰もついていけなくなって、同伴者がいても(妻であることがほとんどですが)、放っておかれます。

「ヤマト土着」とか、「尾張」とか、「吉備」とか、「近江・越」とか。外来系土器の由来ですが、もうこの頃には、半径50メートル以内にほとんど誰もいなくなり、遠く二上山に夕日が沈みかけています。

男は楽しくてしかたのない勉強をしているのです。テーマは「邪馬台国と初期ヤマト王権」ですね。

何を隠そう、男は私です。私は理想的な勉強を堪能できる、根っからの幸せ者なのですね。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

楽-冬講日記(13)

日曜日も男は、あいかわらず早朝に起き出します。ほとんど水と食料だけ入ったリュックを担いで、ほとんど誰も乗っていない休日早朝のJRで、意気揚々と出かけます。

桜井か三輪で降りると、テクテク歩きはじめます。こんもりした起伏を見ると、必ず立ちどまります。

「立入禁止 宮内庁」の立札が無ければ、丘に登ります。古墳ですと墳丘頂です。茅原大墓の後円部頂から、はるか葛城・金剛を見渡すのが好きだそうです。

男はブツブツ言いながら、何か拾い続けています。「壺」とか、「甕」とか、「埴輪」とか、「口縁」とか、「突帯」とか。

素人でもわかる言葉から、複雑怪奇な呪文まで混在しています。

「弥生Ⅴ」とか、「庄内」とか、「布留Ⅰ」とか。土器編年の名称なのですが、ここらあたりになると誰もついていけなくなって、同伴者がいても(妻であることがほとんどですが)、放っておかれます。

「ヤマト土着」とか、「尾張」とか、「吉備」とか、「近江・越」とか。外来系土器の由来ですが、もうこの頃には、半径50メートル以内にほとんど誰もいなくなり、遠く二上山に夕日が沈みかけています。

男は楽しくてしかたのない勉強をしているのです。テーマは「邪馬台国と初期ヤマト王権」ですね。

何を隠そう、男は私です。私は理想的な勉強を堪能できる、根っからの幸せ者なのですね。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

冬期講習が始まります。

早いもので今年もあと2週間と少し。

石川数学塾大阪でも、12/15(金)より冬期講習がスタートします。

 

受験間近に最後の追い込みをかける人、確実に得点するための最終確認をする人、2学期の遅れを取り戻そうと頑張っている人、将来の栄冠を目指してコツコツ積み上げている人など石川数学塾大阪では様々な人が頑張っています。

例えば、2学期の復習や新学期の予習、学校の課題や自分の目標に向けた学習など、冬休みは夏休みに比べますと確かに短いですが、日頃できていないことにチャレンジするにはもってこいの時期だと思います。

是非、お早目のお申込をお願いいたします。

みなさんのご参加をお待ちしています。

石川数学塾大阪の冬期講習は通常授業と同じく、生徒一人ひとりの習熟度やスケジュールに合わせて、カリキュラムの内容や受講の日時・回数が決められるので何かと忙しい君にもピッタリです。

上本町本部教室 中土井

冬期講習のご案内

冬期講習が始まります。

早いもので今年もあと2週間と少し。

石川数学塾大阪でも、12/15(金)より冬期講習がスタートします。

 

受験間近に最後の追い込みをかける人、確実に得点するための最終確認をする人、2学期の遅れを取り戻そうと頑張っている人、将来の栄冠を目指してコツコツ積み上げている人など石川数学塾大阪では様々な人が頑張っています。

例えば、2学期の復習や新学期の予習、学校の課題や自分の目標に向けた学習など、冬休みは夏休みに比べますと確かに短いですが、日頃できていないことにチャレンジするにはもってこいの時期だと思います。

是非、お早目のお申込をお願いいたします。

みなさんのご参加をお待ちしています。

石川数学塾大阪の冬期講習は通常授業と同じく、生徒一人ひとりの習熟度やスケジュールに合わせて、カリキュラムの内容や受講の日時・回数が決められるので何かと忙しい君にもピッタリです。

上本町本部教室 中土井

冬期講習のご案内

想-冬講日記(12)

大和田原(やまとたわら)と聞いて、「ああ、あのあたりね」と、すぐにうなずけるかたは、かなり少数派かもしれません。

宇治茶の産地「宇治田原」に比べ、いかにも影が薄いです。

車でしたら高円山の横からグ~ンと登っていきます。それほど時間がかかるものでもありません。

この大和田原に、一ヶ月に一度、二時間に一本しかない奈良交通のバスに乗って、通いつめた研究者がいました。

大正期から昭和初期にかけて、比較的裕福な農村で盛んに行われた青年団運動を調べるためです。

あたりまえのことですが、人は学校だけで教育されるわけではありません。むしろ学校通いは、長い人生の中で、特殊なほんの一時期の出来事かもしれません。

昔の豊かな農村では、まさにそのごとくに、義務教育期以降の社会教育が充実していました。青年団運動は、その典型でした。

研究者は「田原村の字○○の○○爺さんの話」とか、「同じく田原村の字○○の○○ばあさんの話」とか、たいへんマニアックな史料をたくさん集め、一風変わった論文を書いておりました。

変わってはいましたが、私は研究者の論文が大好きでした。こんな理由からです。

爺さんやばあさんが若者だったころ、学齢期が終わっても学びたいと思いました。お百姓さんや木こりさんになるためだけでなく、よりよく住みやすい村を造るには学ぶべきだと考えたようです。

青年団は入会地の管理を手伝ったり、祭りの準備をしたりもしましたが、酒を飲んでクダを巻くばかりでなく、いやそんなことはほとんどせず、あれこれと集まって一生懸命勉強していた、その実態が研究者の論文から知られました。

農村の若い人たちには、より良き明日への「想い」が満ちていたのです。「想い」が自ら学ぶ人々を造り出していたといってもいいかもしれません。

勉強が嫌がられたり、捨てられたりする現代社会や都会のありようと比べて、なんと真逆であることでしょうか。

本来勉強は、こうしたものであったのだと思います。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

想-冬講日記(12)

大和田原(やまとたわら)と聞いて、「ああ、あのあたりね」と、すぐにうなずけるかたは、かなり少数派かもしれません。

宇治茶の産地「宇治田原」に比べ、いかにも影が薄いです。

車でしたら高円山の横からグ~ンと登っていきます。それほど時間がかかるものでもありません。

この大和田原に、一ヶ月に一度、二時間に一本しかない奈良交通のバスに乗って、通いつめた研究者がいました。

大正期から昭和初期にかけて、比較的裕福な農村で盛んに行われた青年団運動を調べるためです。

あたりまえのことですが、人は学校だけで教育されるわけではありません。むしろ学校通いは、長い人生の中で、特殊なほんの一時期の出来事かもしれません。

昔の豊かな農村では、まさにそのごとくに、義務教育期以降の社会教育が充実していました。青年団運動は、その典型でした。

研究者は「田原村の字○○の○○爺さんの話」とか、「同じく田原村の字○○の○○ばあさんの話」とか、たいへんマニアックな史料をたくさん集め、一風変わった論文を書いておりました。

変わってはいましたが、私は研究者の論文が大好きでした。こんな理由からです。

爺さんやばあさんが若者だったころ、学齢期が終わっても学びたいと思いました。お百姓さんや木こりさんになるためだけでなく、よりよく住みやすい村を造るには学ぶべきだと考えたようです。

青年団は入会地の管理を手伝ったり、祭りの準備をしたりもしましたが、酒を飲んでクダを巻くばかりでなく、いやそんなことはほとんどせず、あれこれと集まって一生懸命勉強していた、その実態が研究者の論文から知られました。

農村の若い人たちには、より良き明日への「想い」が満ちていたのです。「想い」が自ら学ぶ人々を造り出していたといってもいいかもしれません。

勉強が嫌がられたり、捨てられたりする現代社会や都会のありようと比べて、なんと真逆であることでしょうか。

本来勉強は、こうしたものであったのだと思います。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

惑-冬講日記(11)

勉強の天敵、三大思い込みってものがあります。

わかるはず。できるはず。わすれてないはず…の三つです。

全く勉強していませんと、思い込むことすらできません。思い込む人々は、いちおう「やっている」のです。

「やっている」ものの、然るべき成果が出ないのは、誰でもお分かりの通り「甘い」からです。

「甘い」ならば、追い込めばよい!という議論があります。目の前で監視したり、テスト漬けにしたり…ですね。

しかしながら、それほど時を経ずして、単なる方法論の問題じゃない!と、皆さん悟られます。ここまでは正しいです。

はい、ここからが重大です。「あかん、こいつ勉強に向いてない」。これが多くの皆さんの結論です。

はたして、本当にそうでしょうか。何か大事なことを忘れていませんか。

「甘い」のは、おそらく勉強にだけ甘いのではなく、生き方が甘いのですよね。勉強を追い込んだところで、生き方は変わりません。

さっさと諦められるかたのほとんどが、生き方の問題を、勉強の方法論に矮小化している、そのことが私には気になってしかたありません。

大切なことは、勉強の本質論を棚上げするような、看過せざるべき「甘え」の構造ではなく、逃避せず大胆にメスを入れ、切り込むことではないでしょうか。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦