殉-春講日記(15)

信じたことに殉じたいと思うことが、カッコワルイ時代になって久しいです。

古い世代にとって、「思想に殉死する」というと、なにはともあれカッコイイことだったと思います。

恐るべき不利益とか、後ろ指とか、そんなもんくらい、いくらでもウェルカムだった猛者が、たくさんいたものです。

それでも家族を路頭に迷わせるにつけ、ほんの数秒ほど「申し訳ない」と思うのですが、ほんの十秒後には、どこ吹く風、二度三度の好き勝手となります。

国士気取りならまだしも、単なるチンピラだったりすると、始末におえません。

若い世代は、こんなおじさんたちを、不思議なまなざしで見つめます。

そんなことして、何の利益があるの?…と。

後ろ髪引かれる思いでも、兎にも角にも突き進むことと、進まないどころか、意味不明であると断ずることは、かつて東西冷戦の象徴と言われた、ベルリンの壁より高く隔てられているのでしょう。

おじさんたちは、若年の不信心を嘆きます。若者たちは、おっさん!胡散臭いぜ!…と断じます。

水と油は混じりあわないものだと、今日も神話が屹立しているのです。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦