巡-冬講日記(12)

講演会を、もう一席。「国家誕生の地、桜井を語る~マキムクからイワレへ、大王の歩んだ道~」です。

考古学を勉強する時に、おそらく一番慎重にならざるを得ないことがあります。それは「編年」の問題です。

遺跡・遺物はあっても、文献史料がほとんどない、あってもあてにならない時代を扱いますから、要するに実年代いつごろの話なんですか?と問われることが、始まりであり終わりであるのです。

いきなりさっさとわかることでもありませんので、典型的な遺物であるところの土器を歴順に並べ、共伴遺物なども参考にして実年代を推定していく、これを「土器編年」と言います。

研究成果が長年蓄積され、たとえば箸墓古墳といったら、庄内Ⅲ式土器から布留0式土器に、劇的に変わる時代の遺跡だとわかってきました。

ところがこの劇的変化が、実際にいつ起きたのか?となると、ほぼ3世紀の真ん中あたり、西暦250年から260年、ここらあたりに落ち着きつつありますが、280年に下るとか、三世紀前半にさかのぼるとか、諸説入り乱れるわけです。

こうなると、ほぼ三世紀の真ん中くらいにお亡くなりになった邪馬台国の女王・卑弥呼の墓と考えて妥当だろうという説から、いや次の女王・台与の墓かな…とか、間を挟んで「男弟」はないのか…など、これまた紛々とします。

小生が勉強させていただいて、おもしろいな…と思いましたのは、偉い先生方、お若い頃はずいぶん過激な言説に傾かれ、編年を上げ気味に考えられることが多いですが、歳を取られると落ち着かれ、下げ下げに語られることが多いということです。

「古墳の発生は1世紀まで上がって良い」と、通説を200年近く遡らせておられた先生が、箸墓の編年が上がりすぎた、卑弥呼では無理だ、台与に治定すべきだと、ずいぶんおとなしくなられるを聞くにつけ、老境に至った慎重さを感じざるをえません。

また若い先生が、庄内式は2世紀がメインと、上げ上げに編年されるとき、若いエネルギーのすばらしさを感じざるをえませんし、老先生もかつて若かりし頃は…とやられて、若気の至りとも言い逃れできずに困っている老先生にも、同情致します。

歴史は繰り返す、きっとそうなのだろうとも思いました。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦