好学の徒-春講日記(16)

勉強ができるようになりたい人と、勉強ができるようになってほしい人が、塾屋の顧客です。

顧客を大事にせずして、商売は成り立ちません。

塾屋は一生懸命、勉強ができるようになる方法論を伝授します。

顧客は一生懸命学びます。

「学校」というエスタブリッシュメントでは、きっと教えてもらえないのでしょう。

書物・映像などにも、ピッタリ該当するものがないか、あってもインパクトが薄いのだと思います。

こうして塾屋の商売が成立します。

長いこと塾屋をやっていますと、顧客の羨望を感じます。

「先生のように勉強ができるようになりたいです。」

「先生みたいにスラスラ解けたら、どんなに幸せなことでしょう。」

すばらしいモチベーションですが、少し立ち止まって考えておいてください。

小生は少なくとも、勉強が好きで、あまり苦も無くやってきた類の人です。お天気まかせの風まかせではありますが、勉強を苦しいと感じたことがありません。

そんな人にとって「勉強」なるものは、音楽好きがCDを聞くのといっしょ、サッカー好きがグラウンドを駆け巡るのといっしょ、多少たとえは悪いですが、パチプロになったパチンコ好きといっしょ、雀鬼になった麻雀好きと一緒です。

多くの人にとって、勉強なるものは、そんなものではないですよね。嫌いでも我慢してやるもの、やらざるを得ないから、泣きながらでもするもの…ですね。

ですから、先生みたいになってはいけないのです。と言いますか、なれないのです。

しかしながら、好きなことだけをむやみやたらにやっている人と、嫌いなことでも我慢してできる人、どっちが偉いでしょうか。

生徒たちに、こんなふうにいます。

きみのご両親のお姿を、思い起こしなさい。好きな仕事だけやっていますか?少しくらい文句たれながらでも、嫌いなことを我慢してやってはりますよね。家族のため、社会のため、国家のため、一生懸命生きてはりますでしょう。

そんな人間になる努力をしなさい。勉強嫌い、大いに結構。神様は、あなたを、好きなことしかできない人にしないよう、ご配慮下さったのですよ。

さあ、がんばりたまえ!

…「勉強は好きになってやり始め、好きだからこそやり続ける」、そんな無知蒙昧は、そろそろ捨てようじゃありませんか。

学者や官僚の作文に、益するところはありません。机上の空論に、価値はありません。

好学の徒は、そんなふうに考えています。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦