極-冬講日記(6)

勉強をできるようになりたい人は、中途半端にやっているとうまくいきません。

中途半端な人のほとんどが、「もお、こんなもんで、エエやろ?」と、ひとりよがりな基準を設定しています。

「半分も覚えたから、エエやろ」とか、「四分の三まで解いたからエエやろ」とか、「あとは解の吟味だけやし、エエやろ」とか。

なぜダメなのか、お分かりでしょうか。

「半分も覚えた」なかからだけ出題されれば、「四分の三」解いたところまでで満点もらえれば、「解の吟味」をしてみたところで何事も起きなければ、ノーブロブレムなのかもしれません。

しかしながら往々にして、こんな自己中心野郎こそ、運命の女神に後ろ足で蹴られるのです(笑)。

放っておいた「あと半分」から出題されない保証は無く、「あと四分の一」解いてみたら、実は間違った方程式を立てていた、「解の吟味」をしたら妥当する解がアリマヘンでした…などなど、悲劇は忘れたころに起きるものですね。

中途半端は罪です。やり始めてしまったなら、ゴチャゴチャ言わずに極めましょう。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

汗-冬講日記(5)

本気で勉強しますと、脳みそが汗をかきます。脳が「疲労」するということです。

勉強をできるようになりたいと思う人は、このことを嫌がってはいけません。

たとえば何かを「覚えよう」と思う時。ボケ~と見ているだけでは、眠くなるだけで脳は働きません。

手を動かして、口に出してみて、書けないものを何度も繰り返し書いて、脳が疲れたころ、脳みそに刻み込まれるのです。

出題を図に表さなければ、解けそうもない時。目前に書いているだけでは、すぐに夢幻の如く消え去り、やはり解けないでしょう。

あんな図かな、こんな図かなと、あれこれ書き殴り、うまく使えたものを常に使うようになる、それこそ脳の疲弊が報われる瞬間です。

疲労困ぱいした脳は、深夜ともなると、まるで消灯時間のように、カシャっと失神します。

これを喜びと感じられる人が、できるようになる人なのです。

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衝-冬講日記(4)

人を勉強に向かわせるもの、それは人の心のありようです。

「モチベーション」といいますと、なにやら格好良すぎますから、私は「衝動」と称しております。

衝動さえあれば、どんな衝動でも、勉強という実行行為に役立つ度合いに大差ないであろうと、長い間漠然と考えてきましたが、どうやらまちがいであることがわかってきました。

観察と検証を繰り返してみましたら、衝動には三種類あることがわかったのです。

まず、最低限持つべき衝動。「勉強せざるを得ない」と覚悟すること、少なくともそこまで追い込まれることです。

次に、多くの皆さんが標準的に感じている衝動。「勉強ができるようになりたい」とか、「勉強ができると、とてつもなく嬉しい」と明るい希望を持つこと、少なくともその方向のベクトルを持つことです。

最後に、望みうる最上級の衝動。「将来の野望を実現するレールは、勉強に敷きつめられている」と悟ること、少なくともその自覚に満ちることです。

これらは純然とグレードが異なる衝動であり、より高い次元の衝動が、より深い行動原理を形成するものです。

少し難しかったでしょうか。簡単に要約しますね。

「勉強せなあかんと思わんかたら、勉強できんの、あたりまえやね。やらされてするより、自分のためにしいや。そのほうが上達するで」。

な~んだ、初めから簡単に言ってくださいよ!ってな皆さん、心のグレードが低いです。少し難しいことを言われても、飛び上がって飛びつく気概を持ちましょう。

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衝-冬講日記(4)

人を勉強に向かわせるもの、それは人の心のありようです。

「モチベーション」といいますと、なにやら格好良すぎますから、私は「衝動」と称しております。

衝動さえあれば、どんな衝動でも、勉強という実行行為に役立つ度合いに大差ないであろうと、長い間漠然と考えてきましたが、どうやらまちがいであることがわかってきました。

観察と検証を繰り返してみましたら、衝動には三種類あることがわかったのです。

まず、最低限持つべき衝動。「勉強せざるを得ない」と覚悟すること、少なくともそこまで追い込まれることです。

次に、多くの皆さんが標準的に感じている衝動。「勉強ができるようになりたい」とか、「勉強ができると、とてつもなく嬉しい」と明るい希望を持つこと、少なくともその方向のベクトルを持つことです。

最後に、望みうる最上級の衝動。「将来の野望を実現するレールは、勉強に敷きつめられている」と悟ること、少なくともその自覚に満ちることです。

これらは純然とグレードが異なる衝動であり、より高い次元の衝動が、より深い行動原理を形成するものです。

少し難しかったでしょうか。簡単に要約しますね。

「勉強せなあかんと思わんかたら、勉強できんの、あたりまえやね。やらされてするより、自分のためにしいや。そのほうが上達するで」。

な~んだ、初めから簡単に言ってくださいよ!ってな皆さん、心のグレードが低いです。少し難しいことを言われても、飛び上がって飛びつく気概を持ちましょう。

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解-冬講日記(3)

「解けないのは、なぜですか?」と、しばしば聞かれます。「わかってるハズなんですけど…」と、つけ足されます。

確かにそうですね。わかってなければ、解けません。はい、異論なしです。

しかしながら、一点異議あり。わかってるからといって、解けるとは限りません。これもまた、真実です。

何が足らないのでしょうか。正確に発しますと、何が足らないから、わかっていても解けないのでしょうか。

足らないもの、それは修行です。

修行と言いましても、断食や滝行ではありません(笑)。もちろん、そんな荒行ではなく、解けるようになるための演習と、まちがい直しのことです。

サボったり、わざと避けたり、演習と向き合うことから逃げますと、せっかくわかっても、できずに終わります。

加えるに、冒頭の疑問を呈する方の多くが、そのことを無理解であったり、理解していても優先度が低かったりしていることも気になります。

ともあれ、わかるためにはわかるための努力が、できるためにはできるための努力が必要です。

努力を惜しまずに、がんばりましょう。

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解-冬講日記(3)

「解けないのは、なぜですか?」と、しばしば聞かれます。「わかってるハズなんですけど…」と、つけ足されます。

確かにそうですね。わかってなければ、解けません。はい、異論なしです。

しかしながら、一点異議あり。わかってるからといって、解けるとは限りません。これもまた、真実です。

何が足らないのでしょうか。正確に発しますと、何が足らないから、わかっていても解けないのでしょうか。

足らないもの、それは修行です。

修行と言いましても、断食や滝行ではありません(笑)。もちろん、そんな荒行ではなく、解けるようになるための演習と、まちがい直しのことです。

サボったり、わざと避けたり、演習と向き合うことから逃げますと、せっかくわかっても、できずに終わります。

加えるに、冒頭の疑問を呈する方の多くが、そのことを無理解であったり、理解していても優先度が低かったりしていることも気になります。

ともあれ、わかるためにはわかるための努力が、できるためにはできるための努力が必要です。

努力を惜しまずに、がんばりましょう。

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師走

奈良・高の原教室の飯尾です。
本日から12月になりました。

当塾としても、今月は
定期テスト対策、生徒・保護者様との懇談会、冬期講習・・・
等々、イベント盛り沢山です。

なるほど、学校や塾の教師が走り回るほど忙しいから
師走なのかと思っていましたが、よくよく調べてみると、
「師」とはお寺のお坊さんの事だったのですね。
仏事で忙しく走り回っていたからの様です。

個人的には体調に気を付けて、この師走を乗り切りたいと思います。

師走

奈良・高の原教室の飯尾です。
本日から12月になりました。

当塾としても、今月は
定期テスト対策、生徒・保護者様との懇談会、冬期講習・・・
等々、イベント盛り沢山です。

なるほど、学校や塾の教師が走り回るほど忙しいから
師走なのかと思っていましたが、よくよく調べてみると、
「師」とはお寺のお坊さんの事だったのですね。
仏事で忙しく走り回っていたからの様です。

個人的には体調に気を付けて、この師走を乗り切りたいと思います。

学-冬講日記(2)

学ぶことは「真似ぶ」(まねぶ)ことだったそうです。

真似しているうちに自然とできるようになってしまうこと、これこそが本来「学ぶ」ことに他なりませんした。

ですから「教える」こととは、真似しやすいようにお手本を示すことです。

近代的な教授法に引きつけていえば、「例題」がお手本です。しっかり真似して「演習問題」が解けるようになると、ひと仕事終了です。

こんなわけで「学ぶ」ことは、修行そのものです。少しサボると忘れてしまって、できなくなってしまうのは、そのせいですね。

多くの皆さんが、しっかり修行されていることと思いますが、まれにグータラさんが発見されます。

グータラさんは、修行するふりをして指導者に解かせて、正解だけチャッカリいただいてしまおうなどとしています。

ちょっとした気の迷いでしたら、生き直しましょう。

確信犯でしたら…はい、丸刈りにして出直しましょうね(笑)。

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知-冬講日記(1)

いつのまにか時が経ってしまうことがあります。「あたりまえ」の毎日が心地良いと、無意識に時が経ちます。

ふと「毎日」が終わろうとするとき、人は来し方、行く末に思いを馳せるものなのでしょうか。

為政者として、ソツなくやってきました。にもかかわらず、兵馬の道に類まれなる偉丈夫でした。一族郎党そろって討死の壇ノ浦、実質的な総大将、平知盛は何を想ったのでしょうか。

一門の栄耀栄華を見ました。媚びへつらう者たちを見ました。反動勢力との戦いを見ました。そして決定的な裏切りを見ました。

「見尽くした。もうええわ。」

きっとそんな気持ちだったのかもしれません。

入水に碇を懐いたとも、鎧を二枚重ねに着たともいいます。二度と浮上できませんね。ほんまに「もうええわ」だったのでしょう(笑)。

「見るべき程の事をば見つ、今はただ自害せん」(『平家物語』)

ずいぶん素敵な終わりかたもあるものだと、心洗われる思いがします。

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