厳-冬講日記(22)

「厳しい勉強」という論理矛盾があります。

何ゆえに論理矛盾かと申しますと…、勉強は「やりたい人」と「やらざるを得ない人」がするものですから、厳しかろうと厳しくなかろうと、どちらでも良いものなのです。厳しい、厳しくないを、「あえて言い張る必要が無い」ということです。

敢えて言うとしましたら、それは勉強を「やりたくない人」や「やる必要の無い人」が、無理やりやらされている証左に他なりません。これは「勉強」ではありません。

ゆえに「厳しい勉強」は、ありえないのです。

さてさて問題は、ありえないにもかかわらず、あたかも「ある」かのごとく人々に信じられているのは何故か?…、この点ではないでしょうか。

ズバリ言い当てますと、それは迷信だからです。

人々は「勉強」の背後に、蛍雪に耐え、克己を克ち取った物語を求めます。ドラマを求めるのです。

放っておいたら、およそ人々がやらないことを、敢えてするならば、そこには深い事情があるのであろうと。

いずれ人々の洞察は独り歩きし始め、「あるかもしれない」が「あるにちがいない」になり、「まちがいなくあったのだ」に転化します。

難しいことではありません。噂話の独り歩きと同じです。

大事なことは、こんなことです。

勉強に関わるものでなくとも、あらゆる概念は人々によって塗り替えられます。歪曲されることもあれば、誇張されることもあります。

これらと対峙しようとするならば、「現に目の前にあるものだけを信じる」ことを、肝に銘じるべきです。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦