惑-夏講日記(その35)

現職に就いてから、圧倒的に「不思議だ!」と言われること。それは他ならぬ勉強に関することです。ありていに言いますと…

「なんだかすごいテキストがあるわけではない。とんでもないカリキュラムがあるわけでもない。多少の工夫があるにしても、教材は既製品の枠を出ない。解説は丁寧だが、わからないところだけしかしない。希望がなければ、長時間授業するわけでもない。それどころか、やる気が無ければ、即時放り出される。ただ黙々とこなしていく。冗談は多いが、勉強に混在しない。要するに、一生懸命するが、アホしながらではない。煎じ詰めれば、何もない。」

「…なのに何故、勉強ができるようになるのですか?」

答えは簡単です。勉強ができないのは、できるまでやってないから、できないのです。できるまでやれば、できるのは当然です。勉強の派手とか、地味とかには、全く無関係です。

逆に、私が不思議だと申し上げたいことは…

「勉強とは何か特別なことであって、すごいテキストとカリキュラムがあって、もちろんオリジナルで、痒いところに手が届く解説があって、あらゆる設問がカバーされており、長時間拘束され、それが当たり前で、やる気があろうがなかろうが、この魔法のシステムにかかれば、誰でも勉強ができるようになる。眉間にしわを寄せて、ねじり鉢巻きの勉強が、ただ延々と続くだけで、そう言いながらも、ボ~っと他所事を考えている大多数の生徒にとって、ただ漫然たる時間が過ぎ去っていく。」

「…こんなもので勉強ができるようになると、何故信じてしまったのですか?」

世の中には、なんと不思議のあふれていることでしょうか(笑)。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦