仁義-夏講日記(その5)

ふだん忘却の彼方にあるのに、いったん思い出すと気になってしかたないこと、誰にでもあると思います。

「安田講堂」と書いた昨日から、処々昔日の記憶にとらわれています。自書しておきながら、縛られて、自縄自縛とは、このことでしょうか。

「封鎖」の「ふ」の字も無くリニューアルされてしまった現況と、下階から順番に封鎖解除されていったフロアの火の海が、果たして同じ空間なのだろうかと思われて、昔日のほとばしる思いが、昨日のことのように、思い出されはしませんか。

屋上でインターを合唱した仲間が囚われ、最後まで振られていた「社学同」の赤旗が降ろされた時、攻めた側も守った側も、互いの陣営に、図らずも出てしまった重傷者を思いやったといいます。

逮捕された学生の後事を慮る機動隊員と、幾度となく炎上しながらも果敢に攻め続け、ついに本丸を陥落させた機動隊員を、敵ながらあっぱれと称える学生たち。

帝大解体などと、およそ虚妄なスローガンからは見えてこない、互いの緊張関係によってのみ切りあえる仁義が、そこにはあったと言えないでしょうか。

すばらしいですね。

男が「大好き」といってやまない、歴史のピンポイントであります。

安田講堂は「解放講堂」と呼ばれ、そこには「解放放送」が流されていたと言います。最後の解放放送は、こう結ばれたそうです。

「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します。」

男は寡聞にして、時計台放送が再開されたことを、聞いたことがないそうです。

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