あの頃のこと(その4)

「杉浦さん?、文章読ませてもらったよ。」

「何度言ったら、わかるんですか。あれは、私が書いたモノじゃありません。」

「そのセリフ、わしは初めて聞いたけどな。誰が書こうが、書かれようが、わしらには関係ない。ところで、おまえさん、書けるんか?」

「そうですね、筆者かと疑われる程度の作文能力ですが…。」

「十分だ。早速だけど、取りかかってもらうわ。趣意書・企画書、FAXで流すし…。締切厳守やで。」

いきなりマフィアの会話じみてますね。20年ほど前、某大手塾を退職しました私に、かかってきた電話です。

勘どころのよろしい方は、すでにお気づきでしょうが、私は売文屋にリクルートされたのです。どうやらきっかけになりましたのは、「文章」=「書いたモノ」らしいですね。

事件のにおいがしますね。実は私が退職いたします際に、ひと悶着あったのです。

「私は、自分の意識的生涯の43年間というもの革命家でありつづけたし、そのうち42年間はマルクス主義の旗のもとで闘った」(レオン・トロツキー「遺書」)

トロツキー閣下ほどではありませんが、私もずっと現実主義者であり、唯物論者でした。塾業界生活に引き合わせて申しますなら、汗水たらしてドロドロになって働く教室現場こそが最も尊く、その生き血を吸って、くだらない観念論垂れる奴らなんざぁ、下の下の下と考えておりました。

ところが組織が不要に大きくなって、脂肪太りしていきますと、勢い吸血生物も発生し、発生したからには折り合って生きていかねばならないことが増えてくるのです。

何とか住み分けて域内平和を保つのもつかの間、一度激突しますとお互い引くに引けないところまで来てしまいます。

そんな時に、タイミング悪く、事件が起きてしまいました。

京阪神(奈良には統一日程すら無かったころです)の中学入試統一解禁日が大幅に前倒しされることが分かった某年某月某日、「まあ、まず、(統一日繰り上げは)ないやろぅ…」などとタカをくくっていた小生は、カリキュラム表を修正せざるを得ないという窮地に追い込まれていました。どういじっても授業時間の絶対数が足りないところは、休日を返上して運用しようとも考えました。

ところが悲しいことに、「窮地と感ずれば、まず逃げる奴」とか、「何の根拠もなく、なんとかなるさ!と信じる奴」とか、挙句の果てに「既にスキーの予約を9か月後に入れているから、考えないことにする、と宣言する奴」など、およそ下の下の下の下の下の下(しつこいですか?)がいたものですから、およそ精根尽き果てました。

「残念やが、決裂や!恨みっこ、無しやで」

これが最後の言葉でした。受話器を下ろしたら、電話が一台壊れ、壊れた電話の横に責任者宛て「辞表」を置き、「セイセイしたわい!」と去りました。本当に、まぎれもなく、迷いもなく、清々したのです。

念願の「お百姓」になれる喜びに満ち、さっそくレンタル畑を物色していた私に、先日退職しました某大手塾取締役F氏からコンタクトがありました。「約束が違う。〇〇のお目付け役は誰が引き継ぐのか?」。

「しまった!」と思いました。怒りの余りきれいさっぱり忘れていたのですが、先年「暴力事件」を起こして懲戒免職になりかけていた〇〇先生への一方的処分に断固反対して、本社にバリケードストライキを通告した際、話しあえばあうほどに仲良くなってしまったF取締役との約束…たしかにありました。

「○○の職場復帰という杉浦の要求は呑もう。ただし杉浦が責任を持って再研修すること。社内処分はすべて私が被る。任せなさい!」。

小生はFさんの男気に惚れました。バリケードを解除しました。

Fさんと一度だけ話し合うことにしました。その話し合いの場で、小生の退職後に小生の文体をまねた怪文書が流れていること、怪文書の内容がカリキュラム表とは何の関係もない下賤の話題であること、そのほかモロモロを知ったのです。

ガーンときました。もともと誰に認めてもらいたくてやってきた仕事ではありませんし、誰それ関係なくやりたいことは必ずやりますし、その不徳ゆえに怪文書の筆者と思われたのなら、わからないこともありません。

しかしそれならば、怪文書なるものは正々堂々と私を批判すべきではありませんか。え?回りくどいくらいに複雑な利害関係渦巻いてこそ怪文書!ですって?はい、あなたならきっと書けましょう。私には絶対に書けませんが…。

現実逃避モードになった私は、長いこと読み止しだった廣松渉を読みふけりました。冒頭の電話がかかってきましたのは、そんな時だったのです。(続く)

学園前教室・杉浦